名状しがたい偽者

思考よ止まれ そなたは美しい

気になっている文字列を羅列するだけ

帯に短し襷にヤバし

死刑囚動物園

才能かくれんぼ

浮気相談

キリギリスのうめき声が聞こえる

楽しい人格障害

社会の心地よい歯車

自意識の臓物

唇にキノコが生えてちぎってもちぎっても生えてくる

お気に入りの運命論を売り歩く商人

不自由業

ねとられ男子

猫の恩返し 主演ガルーラ

幸せは可燃物であってほしい

あなたのハートにケツドラム

ホットドッグっぽいパンにストロー突き刺して飲んでるJK

玉ねぎみたいに手首スライス

でかいナスの上で餅を焼いている

ハートの月

勘違いした死骸

 

このへん全部映像化できるだけのスキルが欲しい人生だった

オーダーメイド小説という考え方

大衆に向けてではなく、一個人にただただ向けた小説というものをつくってみたい。結果的にマスに受けるというのはいいことだけども。

 

ちょっと前に東浩紀氏まわりでそういう試みが行われていた記憶がある。

あまり詳しいことは知らないし今は検索もめんどくさいのでやらないが、確か小説家の方がその人のためだけに書いて直接届けにいくという試みだったはずだ。

現代で小説を書く意味を考える、という文脈において、革新的なものだなあと思いつつも、単発的な試みに終始するだろうなという思いもあった。

なぜならその小説は、別にその人を題材にしているわけではないのだから(事実関係間違えて認識してるかも)。

 

自分が考えているものとしては、まず最初に2時間ぐらい、誰かと一体一になる。一体になるわけではない。

そこでその人から見えるイメージをとにかく喋って描いて(脳内イメージが豊富なのでよく漏れ出てしまうのを利用する)、その人にとってそのイメージがどのような意味を持ちうるのかブレインストーミングみたいなことをする。分かる人に伝わるように言えば、他人を題材にしてイメストを行う。そして、それを持ち帰って小説にして、後日相手に渡すのである。公開オッケーだったらそのまま普通に小説として世の中に放流するのも可。2人だけの間で留まらない社会性がそこから生まれる。

 

相手を見て思い浮かんだイメージというのは、所詮自分がその人から受ける印象をイメージに置換しているだけに過ぎないから、絶対的な真実味があるわけでもない。ちょっとばかり言語よりマシになるかもしれないという程度の精度だ。でも、言葉よりもイメージは時として雄弁に語る。そしてそれは1人の時より、2人以上の時により濃密になる。

 

宗教を少しばかり勉強していた自分にとって、宗教”的なもの”が鼻につくのは「それが絶対的な真実である」ということを前提に見ているからだ。だったら、保証となるものが虚構であればあるほど誠実なのではないか? 

このへんの考え方は箱庭療法だとかのナラティブセラピー的なものに近いのかもしれないが、自分がしたいのはあくまで治療ではなく創作だ。治療行為を目的にした瞬間真面目なものになってしまうという予感があるゆえに、創作という遊びの枠組みから逃れられない。

占いも形式的には相当近いと思うけど、別にその人のための助言は目的にしないし、なにより真実なんて胡散臭いものを掲げたりはしない。世界観にその人を当てはめて導きを得るというのは有用だと思うけど、既存の枠組みに当てはめるという遊びよりも最初から作り直すという遊びをやりたい。

 

その人から見えたイメージを話して描いて、それを元にして後日短編小説にする。そして、それをおしゃれな感じの小冊子かなんかにして渡してあげたらなんか喜ばれるのではないだろうか。 

男の子なら誰しもが自分のスタンドなり念能力なりを妄想したことがあるものだと勝手に思っているが、あれをイメージや小説という媒体でやるわけである。

僕の絵がうまければ絵だけでも完結しそう、というか絵のほうが訴求力高そうだしより直感的だしでいい気もするが、人様にあげるほど絵がうまくないので小説に結局なっていうという側面は否定できない。

 

とはいえ、その人から得たイメージという材料でどこまで世界を広げられるか、というのは、世界創造のスキルを養うといううえで意味がある行為だと思うし、ただのホムンクルス左目だけに留まらない価値を見出すことができるのではないかなとワクワクしている。

というわけで、今絶賛被験者を募りまくってイメージを思いつきまくって、それを元にお話を作りまくりたい衝動にかられているわけである。まずは自分自身を被験者にするところからはじめてみよう。

文字を書くうえでのブルーオーシャン戦略(覚書)

レッドオーシャンで戦えるだけの実力を身につけることと、自分にとってのブルーオーシャンを見つけること、これらはどちらも並行してやるべきだとは思う。

それはどんなフィールドにおいてもそうだ。

ブルーオーシャンを見つけることが自己研鑚しないことの言い訳になることは好ましくない。

同時に、レッドオーシャンという血の池地獄でひーこらひーこらしていて視野が狭くなり、自分の世界の外側に平和な海があるということを知らずに死ぬのは虚しい。

自分の苦労(HP/MP)をどこにどのように割くか、このへんを戦略的に判断できるか否かがある程度つかめているときの人生はかなり楽しい。

 

ところで、文字を書くときのブルーオーシャン戦略というものについて良く最近考えるのだけど、一億層表現者的な社会において、文字を書くという行為だけで差をつけるというのは極めて難しい。

文字なんて所詮ただの手段であって目的ではないので、目的部分やコンテンツぢからが強いか強くないかというところで多くの場合判断されるんだろうけど、珍しい生き方をしてもないし、さして有名ではない人が文字だけでのし上がっていこうとするとき、どうやって差異化を図っていくべきなのか。

パッと思いつく”邪道”としては、発表形式を珍しいものにするというものがある。小説であったら、自分の小説が書いてある付箋やらトイレットペーパーやらをつくるとか、美女の裸をキャンバスに文字を書き込んでいくとか。電車とか乗ってるとほとんどの人がスマホ眺めているので、スマホと親和性のある表現であるほうが戦闘能力高そうなのは言うまでもない。

スマホと相性が良いものとしてネット小説というものがある。自分もむかーーーしちょこっとやってたし、反応が返ってくるとああいうのはそれなりに楽しいもので、近いうちに再開しようと思うわけなんだけど、最近のネット小説はどんなものかとちらりと見てみたら、これまた普通に面白い小説がわんさかわんさか、出るわ出るわでかなりビビった。上位の小説しか見てないからかもしれないが、素晴らしいアイディアを持ちそれを表現する能力を持った人間って腐るほどいるんだなあと改めて実感。

 

そんなことは、街をちょっとでも歩いたらわかることで、世界はアイディアで満ち満ちている。人間のアイディアを見つけることができない瞬間という方が珍しい。

人のアイディアに敏感になればなるほど自分の無力さを実感せざるをえず、「ああ〜〜まともにやったら目立てないんじゃ^〜〜〜」と思ってメディアミックス的な何か、従来の表現方法とは少し違うものを思わず考えたくなってしまう、という流れが生まれるわけである。

イメージとしては、小説であれば文字媒体だけに頼らず、映像的にも楽しく、それでいてパッケージング化されているという印象を与える構造があれば、結構集客力が高いのかなと思う。少なくとも一見さんにインパクトを与えるだけの構造が欲しい。

一人ひとりが映画をつくるのは無理だし、小説に挿絵をいれるのも絵を描くスキルがなければできない。簡単な映像と文字を組み合わせるようなプラットフォームみたいなのがあれば楽しそう。妄想である。キーワードとしてはサンプリングになるのだろうか。

カラオケの歌詞に合わせて映像が出てくるようなやつ、あそこまで色気のないやつになるとちょっとどうかと思うんだけど、スマホ時代に文字だけで読ませるっていうのはやはり読み手を選んでしまうように思える。

それか、そもそも書き手に絞った映像化のためのサービスみたいなほうが需要があるのかもしれない? 映画にしたい人のためのサービスというわけじゃなくて、世界観を構築していくうえでそのための映像地図を簡単につくってくれるようなもの、というか。

なんかRPGツクール的なノリになるのかもしれないが、ブログつくるぐらいのノリで自分の作ったフィクションの世界をある程度可視化してくれるサービスみたいなのがあったら、創造力が途中で止まってしまう勢にとっても結構有益なような気がする。

 

ADDなので思考嗜好志向がどんどんと明後日の方向にとんでいってしまうのはご了承

現代において自分が物を書かなければならない必然性

が、圧倒的に欠けてしまっている。

というかそのへんのことをきちんと見出すことができていないのが、最近筆が止まっている原因なのかなと思う。

あるいは、そういったものがなければ筆が進まない程度にモチベーションが元から低いと言ってしまってもよいのだが、それだと元も子もない。自分は「本物」でもなんでおなく、仮初の弱さで何かを打ち立てたいと願っているのだから。

それは圧倒的な傲慢であり世間知らずであり、そういうのは多分中学生ぐらいの時に捨てておいたほうがいい思想なのだとは重々承知なのだけど。

いや承知していないからずっと続けて来ているわけだけど。こういうナルシスティックな自己分析をするまでもなく。

 

あまりにも物を書く人間が多すぎて、自分という人間のバリューをどう出すべきなのか、大した努力もしないで考えることは滑稽極まりないし、かといって自分は今の生活に相当満足してしまっている。

そのため、何か自分を突き動かす根源的な欲求、もしくは欲求不満に支えられた情動というものが希薄だ。

自分に何かトラウマチックなものがあればそれがマナとなって、スペルカードを唱えるだけの余裕が生まれるのだと思うのだけど、今現在「不毛の大地」ってやつである。アンタップしてえ〜〜〜

 

ともかく、何か別次元で自分がやるべきことを探す必要しかない。探すだけじゃなく、手を動かしてゴミを生成しながら、自分が敷くべきレールを作り上げていくしかない。

換言すれば、結局のところ「運命」というやつを求めているのではないかなという話なんだろうな、これはという気がする。既存の宗教を信じることもできず、かといって自分で宗教の打ち立てる実力がこれっぽっちもない無神論者の行く末がこんなものとは思いたくない。

 

休題閑話

 

「ミッション」とやらを打ち立ててエネルギーにする人をよく見る。もともとの発想の出自がプロテスタンティズム(にあると偉い学者やそれに影響を受けた人々が言っているだけかもしれない)なのだから当たり前だけど、かなり宗教的な発想だなと思う。

そういう人間が宗教的なものを毛嫌いするのはどういう了見なのか? と一瞬思ってしまうが、別に新しい軸での宗教戦争をやっているだけに過ぎないと思ってしまえば、特段目新しいものでもなかった。

宗教的態度自体は問題なくて、何を信仰するのかが大事なのだ、という反論がミッションマンからとんできそうだ。

その場合、僕からのささやかな抵抗としては、ミッションという正義を振りかざすなんて遅れている、と発言することなんだけど、

正義うんぬんみたいな話自体がそもそも時代遅れ感MAXすぎて話にならなそう。

 

「こういう地味に保険に保険をかけたような文章って要点全然わかんないしゴミ以外の何物でもない」という保険を扉の下に入れておく。

それにしても何も推敲せず、思いついたままに文字を書き連ねる行為も意外と楽しいものだ。排泄以外の意味があるのかと問われると相当怪しいんだけど、世の中にはスカトロマニアもいるということだし、自分の糞磨きにもなると思うから、なんとなくこれからできるだけ毎日糞を公開していきたい。羞恥心を投げ捨てて3千里。3千里の道も一歩から。スカトロ垂れ流しながら歩き続けるの楽しそう。後ろ振り返ったら魑魅魍魎の大行列、みたいな現象になったら百鬼夜行みたいで素敵やん?