文字を書くうえでのブルーオーシャン戦略(覚書)
レッドオーシャンで戦えるだけの実力を身につけることと、自分にとってのブルーオーシャンを見つけること、これらはどちらも並行してやるべきだとは思う。
それはどんなフィールドにおいてもそうだ。
ブルーオーシャンを見つけることが自己研鑚しないことの言い訳になることは好ましくない。
同時に、レッドオーシャンという血の池地獄でひーこらひーこらしていて視野が狭くなり、自分の世界の外側に平和な海があるということを知らずに死ぬのは虚しい。
自分の苦労(HP/MP)をどこにどのように割くか、このへんを戦略的に判断できるか否かがある程度つかめているときの人生はかなり楽しい。
ところで、文字を書くときのブルーオーシャン戦略というものについて良く最近考えるのだけど、一億層表現者的な社会において、文字を書くという行為だけで差をつけるというのは極めて難しい。
文字なんて所詮ただの手段であって目的ではないので、目的部分やコンテンツぢからが強いか強くないかというところで多くの場合判断されるんだろうけど、珍しい生き方をしてもないし、さして有名ではない人が文字だけでのし上がっていこうとするとき、どうやって差異化を図っていくべきなのか。
パッと思いつく”邪道”としては、発表形式を珍しいものにするというものがある。小説であったら、自分の小説が書いてある付箋やらトイレットペーパーやらをつくるとか、美女の裸をキャンバスに文字を書き込んでいくとか。電車とか乗ってるとほとんどの人がスマホ眺めているので、スマホと親和性のある表現であるほうが戦闘能力高そうなのは言うまでもない。
スマホと相性が良いものとしてネット小説というものがある。自分もむかーーーしちょこっとやってたし、反応が返ってくるとああいうのはそれなりに楽しいもので、近いうちに再開しようと思うわけなんだけど、最近のネット小説はどんなものかとちらりと見てみたら、これまた普通に面白い小説がわんさかわんさか、出るわ出るわでかなりビビった。上位の小説しか見てないからかもしれないが、素晴らしいアイディアを持ちそれを表現する能力を持った人間って腐るほどいるんだなあと改めて実感。
そんなことは、街をちょっとでも歩いたらわかることで、世界はアイディアで満ち満ちている。人間のアイディアを見つけることができない瞬間という方が珍しい。
人のアイディアに敏感になればなるほど自分の無力さを実感せざるをえず、「ああ〜〜まともにやったら目立てないんじゃ^〜〜〜」と思ってメディアミックス的な何か、従来の表現方法とは少し違うものを思わず考えたくなってしまう、という流れが生まれるわけである。
イメージとしては、小説であれば文字媒体だけに頼らず、映像的にも楽しく、それでいてパッケージング化されているという印象を与える構造があれば、結構集客力が高いのかなと思う。少なくとも一見さんにインパクトを与えるだけの構造が欲しい。
一人ひとりが映画をつくるのは無理だし、小説に挿絵をいれるのも絵を描くスキルがなければできない。簡単な映像と文字を組み合わせるようなプラットフォームみたいなのがあれば楽しそう。妄想である。キーワードとしてはサンプリングになるのだろうか。
カラオケの歌詞に合わせて映像が出てくるようなやつ、あそこまで色気のないやつになるとちょっとどうかと思うんだけど、スマホ時代に文字だけで読ませるっていうのはやはり読み手を選んでしまうように思える。
それか、そもそも書き手に絞った映像化のためのサービスみたいなほうが需要があるのかもしれない? 映画にしたい人のためのサービスというわけじゃなくて、世界観を構築していくうえでそのための映像地図を簡単につくってくれるようなもの、というか。
なんかRPGツクール的なノリになるのかもしれないが、ブログつくるぐらいのノリで自分の作ったフィクションの世界をある程度可視化してくれるサービスみたいなのがあったら、創造力が途中で止まってしまう勢にとっても結構有益なような気がする。
ADDなので思考嗜好志向がどんどんと明後日の方向にとんでいってしまうのはご了承