名状しがたい偽者

思考よ止まれ そなたは美しい

オーダーメイド小説という考え方

大衆に向けてではなく、一個人にただただ向けた小説というものをつくってみたい。結果的にマスに受けるというのはいいことだけども。

 

ちょっと前に東浩紀氏まわりでそういう試みが行われていた記憶がある。

あまり詳しいことは知らないし今は検索もめんどくさいのでやらないが、確か小説家の方がその人のためだけに書いて直接届けにいくという試みだったはずだ。

現代で小説を書く意味を考える、という文脈において、革新的なものだなあと思いつつも、単発的な試みに終始するだろうなという思いもあった。

なぜならその小説は、別にその人を題材にしているわけではないのだから(事実関係間違えて認識してるかも)。

 

自分が考えているものとしては、まず最初に2時間ぐらい、誰かと一体一になる。一体になるわけではない。

そこでその人から見えるイメージをとにかく喋って描いて(脳内イメージが豊富なのでよく漏れ出てしまうのを利用する)、その人にとってそのイメージがどのような意味を持ちうるのかブレインストーミングみたいなことをする。分かる人に伝わるように言えば、他人を題材にしてイメストを行う。そして、それを持ち帰って小説にして、後日相手に渡すのである。公開オッケーだったらそのまま普通に小説として世の中に放流するのも可。2人だけの間で留まらない社会性がそこから生まれる。

 

相手を見て思い浮かんだイメージというのは、所詮自分がその人から受ける印象をイメージに置換しているだけに過ぎないから、絶対的な真実味があるわけでもない。ちょっとばかり言語よりマシになるかもしれないという程度の精度だ。でも、言葉よりもイメージは時として雄弁に語る。そしてそれは1人の時より、2人以上の時により濃密になる。

 

宗教を少しばかり勉強していた自分にとって、宗教”的なもの”が鼻につくのは「それが絶対的な真実である」ということを前提に見ているからだ。だったら、保証となるものが虚構であればあるほど誠実なのではないか? 

このへんの考え方は箱庭療法だとかのナラティブセラピー的なものに近いのかもしれないが、自分がしたいのはあくまで治療ではなく創作だ。治療行為を目的にした瞬間真面目なものになってしまうという予感があるゆえに、創作という遊びの枠組みから逃れられない。

占いも形式的には相当近いと思うけど、別にその人のための助言は目的にしないし、なにより真実なんて胡散臭いものを掲げたりはしない。世界観にその人を当てはめて導きを得るというのは有用だと思うけど、既存の枠組みに当てはめるという遊びよりも最初から作り直すという遊びをやりたい。

 

その人から見えたイメージを話して描いて、それを元にして後日短編小説にする。そして、それをおしゃれな感じの小冊子かなんかにして渡してあげたらなんか喜ばれるのではないだろうか。 

男の子なら誰しもが自分のスタンドなり念能力なりを妄想したことがあるものだと勝手に思っているが、あれをイメージや小説という媒体でやるわけである。

僕の絵がうまければ絵だけでも完結しそう、というか絵のほうが訴求力高そうだしより直感的だしでいい気もするが、人様にあげるほど絵がうまくないので小説に結局なっていうという側面は否定できない。

 

とはいえ、その人から得たイメージという材料でどこまで世界を広げられるか、というのは、世界創造のスキルを養うといううえで意味がある行為だと思うし、ただのホムンクルス左目だけに留まらない価値を見出すことができるのではないかなとワクワクしている。

というわけで、今絶賛被験者を募りまくってイメージを思いつきまくって、それを元にお話を作りまくりたい衝動にかられているわけである。まずは自分自身を被験者にするところからはじめてみよう。